一枚の同級生の写真

このところ更新がままならない。
目が疲れるのと耳鳴りが酷いのと、今町場の問題が面白くてそちらに傾倒しているせいでもある。
この頃、実名でも構わないのになぜ匿名でBlogなんぞをやっているのか疑問に思うことがある。
実名でフェイスブックでもやった方が身近な出来事を書けるし都合がよいのだが、しかしこれまでの経緯上公表できない記事もあるしと、仕方なくこのまま続けることにしている。
最近あった次のような出来事は、匿名で書き留めた方がよいと思う。



㋂は卒業式のシーズンだ。
先日北国の実家から、一枚の同級生の写真が送られてくる。
中学三年の時仲の良かったTと私が、今では見られない赤い郵便ポストに寄りかかって写っている。
Tはネクタイをしていて私は高校服を着ているから、中学を卒業した年の夏休みの頃か、東京に集団就職したTが帰郷して再会した時のものと連想できた。
なぜこの写真が今頃届いたのか実家に問い合わせたら、昨年の秋近く農園を営むZがリンゴ販売に来て、ついでにこの写真を私に渡すよう言付かったとのことだった。



そこでZと50年ぶりかで電話で話しをする。
彼とは小学の頃リンゴ園などでよく遊んだ記憶がある。
TもZも中卒と同時に進学せず就職組であった(Zは一年遅れで高校へ行く)。
私は勉強大嫌いだったので、受験勉強などしない彼らと気が合って、一緒に遊び回っていた。(しかし私は中3の秋頃から、しかたなく高校でも行くかと、学校で彼らと遊んでは夜中家で勉強するようになった。)

彼らは今で言うところの落ちこぼれた連中であり、生存競争のレールから初めから外れていた。
「覆水盆に戻らず」という諺があるが、しかし10の水に8の容器を用意されたらどうあがいても2の水は零れ落ちるのだと、知ったのは後のことであった。

写真は就職したTが夏休みに田舎に帰り、親しかった同級生数人に呼びかけ、皆にごちそうして錦を飾った時のものらしい。
後日TはZへ手紙と写真を送り、私にも写真を渡すように依頼していた。
そのことをずっと忘れず気にしていたZは、なんと51年ぶりに写真を実家に届けたというわけだ。



そして順序が逆になるけれど、奇しくも写真が届いた前日、私とTと同クラスだったWから30年ぶりかの電話がかかっていた。
いろんな事で話が弾んだけれど、そこでTが亡くなっていると聞かされた。
その翌日、Tとのツーショットの写真が届いたわけで、それは私にとってショックだった。

Wの話では、Tは10年ぐらい前に事件を起こしたらしい。
どこかの家宅侵入罪だったかで、逮捕されたというニュースをTVで見たとのこと。
逮捕された時精神状態が異常で、わけのわからないことを口走っていたと報じられ、罪は問われないかもしれないというような内容だったと、Wは説明していた。

更に数年前の同窓会名簿でTは(故人)になっているとのことだった。
私は胸騒ぎがして、それから私の中の何ものかを探し求めるように、あちこち電話してTの消息を追った。
情報通と思われる何人かの同級生に電話したが、誰もTの生末を知らないし、なぜ同級会名簿で(故人)になっているのか誰も覚えていないということで、未だはっきりしないままでいる。



中三の頃、我ら少年団は明るく元気だった。
勉強もせず笑い転げて遊び回っていた。
時の止まったような歓喜の世界に入り込み、毎日がお祭りの続きのようだった。
それは錯覚かもしれなかった。でも錯覚だろうとなかろうとどうでも良かった。
社会的道義的に悪いこともしていて、そこら中に迷惑かけたかもしれないけれど、自分達少年団の価値判断が全てであっって、社会的道義的だとか規制なんていうのは、つまらない大人の仕来りだと思っていた。


やがて私も大学に行くので、遅れて上京するようになる。
彼は私の杉並のアパートの近くに引っ越してくる。
楽しかった中3時代の延長を夢みてのことだったのだろう。
しかし当時はまだ学生運動が盛んな頃で、高校時代の仲間がアパートに頻繁に出入りしていたので、Tはあまり馴染めなかったようだ。

大学卒業後の板橋の住居にもスイカを持って遊びに来り、平和友好祭だったかで長野へ一緒に行ったことがあった。
結婚して四谷に住んでいる時も訪ねて来て、子供を連れ神宮球場に遊びに行ったり、新宿で一緒に飲んだことがあった。
法事で故郷に帰った時も会ったりしていた。

ただ中三のままの友人関係を維持するだけだったように思う。
人間関係は同じ状態で維持することは出来ないから、社会に出て人間関係を発展させるには、別な形に進化しなければならなかった。
しかしその夢がお互い叶うことは無かった。


彼は当時ビルの外窓拭きの仕事をしていた。
賃金は良いけれど、暑さ寒さも厳しく、ドラゴンに乗り大変危険な仕事でもある。
ある日足場を踏み外し落下し、電線でバウンドし体操選手の様に回転しながら両足で着地して助かったと、しかし両足複雑骨折してリハビリ中だと、笑って話していたことがあった。
それが、最後の会話だっただろうかと今にして思う。

Tはその後、仕事を続けられたのだろうか・・。
イラク戦争に抗議し喪に服すと称して、年賀状を辞めてから音信不通となっていた。



1966年15才の春、高度成長期真っただ中で、中卒就職組は‟金の卵“と持てはやされていた。
全ては右肩上がりで、青年の未来は揚々と開かれているかのように見えた。
しかし私達はそこから成長がストップしてしまった部分がある。
巨大な資本主義社会の高度成長期のシステムに呑み込まれようとした時に、甘いと言われようが、未熟と言われようが、そこで失ってはならない確かなものを、Tと共有していたのだ。
だから、きらめく草の葉に心が弾み野に咲く花に心が通う、笑い転げて野山を駆け巡っていた少年時代から、卒業などしたくなかった。


Tは逮捕された時、訳の分からないことを言って精神状態が不安定だったと報じられていたという。
私は何を言いたかったのか分る気がする。
たぶん「あんた達の方がおかしい」「あんた達に合わせる気はない」と、言葉にならない言葉で叫んでいたのだろう。



3月の故郷は草は枯れ花もまだ咲かない、山間に残雪が残りまだまだ肌寒い時節だ。
中学の卒業式を終え、東京に出て行く前日だった。
Tは自転車で山の麓にある私の村まで尋ねて来て、村にある小学校で落合った。
ブランコに腰を掛けながら、とりわけ話す言葉も無かった。
「明日行くのか・・」「うん・・」
少し沈黙があった後、Tは徐に立ち上がり「これやるよ」と40㎝ぐらいの木彫りの小刀を私にくれる。
黄色の漆の木なのか、丹精込めて作ったのが分る。
そして、村の小学校から町へ続く長い直線の道を、Tは一度も振り返らず走り去った。



Tよ待っていてくれ
もう直みんなそちらに行く
そちらでは初めから国境も戦争も差別も落ちこぼれも苦役も貧困もないはずだ
あるのは あの時が止まったような歓喜だけだろう
我らが15の春に決別できなかった世界で再び会おう




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Commented by stanislowski at 2018-03-10 04:15
いい写真ですね。木造と赤いポストが郷愁を誘います。
15のこころよいつまでも!
お体お大切になさってください。

Commented by ニコリーヌ at 2018-04-12 07:36 x
ご無沙汰しています。
同級生のお話、せつない気持ちに、なりました。Tさん一緒の写真が届いのも驚くようなタイミングですね。
成長に伴う社会との関わりの中で、人間のつながりも変わってきくのは仕方がないことかもしれませんが、若くして同級生が誰も知らないうちに故人になっていたクラスメートが私にもいました。
その子は恵まれない境遇らしく、宿題はやってこない、勉強はできない、先生にはビンタされる、立たされるなど毎日いじめられていました。勉強を私が教えてあげたことがあり、その後、彼から年賀状が来たことがありました。その後大人になった彼はどうしているのかと思うことがありましたが、後年のクラス会で「故人」となっていて、誰も事情を知らないということがあり、かぶ男さんとは事情はちがいますが、何というか胸に切ないものを感じたことがありました。
Commented by turnipman at 2018-05-23 21:30
stanislowskiさん、ニコリーヌさん、返信遅れてすみません。
今耳鳴りが酷いのと、そのくせ外の活動が慌ただしいのと、それとこの記事はどう説明したらいいのか、自分の中でしっくりいかず遅れてしまいました。
何だか、‟言葉にすれば嘘に染まる”気がして。
このところ転載記事ばかりですが、余裕ができたらまた自分の記事を書こうと思います。
by turnipman | 2018-03-05 23:13 | 残土録 | Trackback | Comments(3)

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