2016年 09月 02日
夏の思い出「丸山千枚田」 |
東京都知事選の投票日に、久しぶりにドライブに出かけた。
早朝出発し、三重県紀和町の丸山千枚田に行くことにした。以前からどうしても見たいと思っていたところだ。
海岸沿いの国道42号線を北上し、もの凄い蝉時雨の七里美浜海岸線を過ぎて、熊野市で左折し311号線に入り暫く蛇行しながら行くと、紀和町の山奥の急斜面にその千枚田は現れる。
何の予備知識も無くただ行ったのだが、311号線は奈良へと続く道路でもあった。その北東側の169号線は熊野市から吉野へ繋がり、西側168号線は新宮市から十津川を経て五条市に至る。
何年か前、大阪にいる娘が引っ越しするというので往復どちらの道も軽トラで走ったことがあった。奈良に行くには169号線の方が断然早かった。
こんな山奥に何故立派な千枚田があるのか、千枚田の上部に何故か鍛冶の神様(デジカメ電池切れで写真撮れなかった)が祭ってあるのか、例によって不可解な興味が湧いてくる。。
その後、突然紀和町鉱山資料館なるものに出くわし、中に入って興味深く拝見した。そして古代この辺りは何があったのだろうと、館の係り人と暫し話が弾んだ。
紀和町をドライブすると、あちこち分断された熊野古道に出会う。そして鉱山が彼方此方に有ったらしいことが分かる。鎌倉末期辺りから入鹿刀剣作りでも名高かったそうだ。
伊勢、熊野、高野山という紀伊半島の3大聖地は奈良を囲むように断層があり、そのマグマで隆起した花崗岩から各種鉱山が生まれたと伝えられている。
そこで神武軍東征との関連が解れば、天皇一族が何処から来たのかもわかるのかもしれない、という関心が俄かに起こって来る。
神武軍東征は後の7世紀頃になってからの作り話だという説も多い。
古事記などでは、大阪湾でナガスネヒコに敗北した神武軍は、太陽神アマテラスの子でありながら太陽に向かって戦ったので敗北したと総括し、太陽を背にして闘えば勝つと信じて紀伊半島を迂回して東征したってことになっているのだが・・。
奈良に攻め入るなら紀ノ川沿いか、三重県の櫛田川沿いが妥当と思われる。よりによってもの凄い険しい熊野川沿いを、八咫烏に案内されたか知らないが、敢えて遡ったとは普通考えられない、ということだろう。
しかし火の無いところに煙は立たないとも言う。
そこに弥生式農耕と武力侵略に欠かすことのできなかった鉱山物質支配を目指したとすれば、一応東征転戦の理由は成り立つ。熊野で神武軍が毒ガスのようなもので一時総倒れするのも、鉱山のガス関係で解釈することもできる。
そうであるなら168十津川ルートではなく、ルート169を辿ったのではないかと私は推測する。「吉の野」と「熊の野」を結ぶ侵略拡張のルートに、日本古代国家成立を解明するカギがあるのではないか、なんて夏の夜の妄想は自由勝手に彷徨うのだ。
熊野に至る古道は五つある。
十津川ルート(小辺路)の考察を2年前にしていた。
http://turnipman.exblog.jp/20696206/
紀和町は(伊勢路)の終点近くにある。次は海沿いルート(大辺路)を行きたい。
早朝出発し、三重県紀和町の丸山千枚田に行くことにした。以前からどうしても見たいと思っていたところだ。
海岸沿いの国道42号線を北上し、もの凄い蝉時雨の七里美浜海岸線を過ぎて、熊野市で左折し311号線に入り暫く蛇行しながら行くと、紀和町の山奥の急斜面にその千枚田は現れる。
何の予備知識も無くただ行ったのだが、311号線は奈良へと続く道路でもあった。その北東側の169号線は熊野市から吉野へ繋がり、西側168号線は新宮市から十津川を経て五条市に至る。
何年か前、大阪にいる娘が引っ越しするというので往復どちらの道も軽トラで走ったことがあった。奈良に行くには169号線の方が断然早かった。
こんな山奥に何故立派な千枚田があるのか、千枚田の上部に何故か鍛冶の神様(デジカメ電池切れで写真撮れなかった)が祭ってあるのか、例によって不可解な興味が湧いてくる。。
その後、突然紀和町鉱山資料館なるものに出くわし、中に入って興味深く拝見した。そして古代この辺りは何があったのだろうと、館の係り人と暫し話が弾んだ。
紀和町をドライブすると、あちこち分断された熊野古道に出会う。そして鉱山が彼方此方に有ったらしいことが分かる。鎌倉末期辺りから入鹿刀剣作りでも名高かったそうだ。
伊勢、熊野、高野山という紀伊半島の3大聖地は奈良を囲むように断層があり、そのマグマで隆起した花崗岩から各種鉱山が生まれたと伝えられている。
そこで神武軍東征との関連が解れば、天皇一族が何処から来たのかもわかるのかもしれない、という関心が俄かに起こって来る。
神武軍東征は後の7世紀頃になってからの作り話だという説も多い。
古事記などでは、大阪湾でナガスネヒコに敗北した神武軍は、太陽神アマテラスの子でありながら太陽に向かって戦ったので敗北したと総括し、太陽を背にして闘えば勝つと信じて紀伊半島を迂回して東征したってことになっているのだが・・。
奈良に攻め入るなら紀ノ川沿いか、三重県の櫛田川沿いが妥当と思われる。よりによってもの凄い険しい熊野川沿いを、八咫烏に案内されたか知らないが、敢えて遡ったとは普通考えられない、ということだろう。
しかし火の無いところに煙は立たないとも言う。
そこに弥生式農耕と武力侵略に欠かすことのできなかった鉱山物質支配を目指したとすれば、一応東征転戦の理由は成り立つ。熊野で神武軍が毒ガスのようなもので一時総倒れするのも、鉱山のガス関係で解釈することもできる。
そうであるなら168十津川ルートではなく、ルート169を辿ったのではないかと私は推測する。「吉の野」と「熊の野」を結ぶ侵略拡張のルートに、日本古代国家成立を解明するカギがあるのではないか、なんて夏の夜の妄想は自由勝手に彷徨うのだ。
熊野に至る古道は五つある。
十津川ルート(小辺路)の考察を2年前にしていた。
http://turnipman.exblog.jp/20696206/
紀和町は(伊勢路)の終点近くにある。次は海沿いルート(大辺路)を行きたい。
by turnipman
| 2016-09-02 18:07
| 古道散策