2015年 10月 26日
9条と自衛隊 |
今日は仕事も無く、快晴で波も穏やか、夕方イカ釣りにでも行こうと思う。
その前に、一昨年の秘密保護法、昨年の集団的自衛権の閣議決定、今国会の安保関連法の制定と、海外で戦争する国作りを目指す一連の動きの中で、腑に落ちない点があったので書き留めておきます。
それは何時頃から私自身が気付いたのか、いつの間にか、自分の国を自分で守るのは当然で、個別的自衛権は認めるべきで、自衛隊は必要ではないか、という空気が世間で広まっているということです。そこが腑に落ちないことでした。
そもそも日本国憲法9条は個別的自衛権すら認めておらず、かつて司法がどう判断したにせよ自衛隊は違憲な存在であり、9条を素直に読めばあらゆる戦争を放棄し交戦権は認めていない、常備軍を持つことを禁止しているのがはっきりと伝わってきます。それだけを宣言しているのだというのは、小学生が読んでも理解できることでしょう。
しかるにいつの間にか、攻められたら自衛(応戦)するのは当然で、自衛隊で対処するというのが野党を含めた主張となっているようです。民主党や生活の党はもとより、社民党や共産党までそのようなことを言い始めています。いつの間にそうなったのでしょうか・・・。
一昨年辺りから地域で9条の会の活動に参加するようになって、署名などで各家を回ると8割方の人は署名してくれるし、9条は守るべきとの意見は圧倒的に多い。
ただ気になったのは、昨年4月の結成大会の時から「攻めて来たらどうする」「自衛隊は必要ではないか」という意見が根強くあることでした。その辺りから何か変だと気付いたのかもしれません。
「攻めて来たらどうする」という切迫観念は、前回も書いたように、煽られ刷り込まれたもので根拠がないと私は考えているが、それに対する9条の会側からは「攻めて来ないように外交努力をする」という説明が実しやかにされていました。
「攻めて来たらどうする」に対して、「攻めて来ないように外交努力をする」では、まるで会話になっていない。「それでも攻めて来たらどうする」という質問に対して、問題をすり替えて別の解答をしているという苛立たしさを感じたものです。
その後9条の会としては、9条を守るという一点共闘で、「攻めてきたらどうする」とか自衛隊は違憲か合憲かは論議を深めこそすれ、無理に共通の一致点とはしない。そこは意見が違っていても構わない、ということで収まっています。
果してその相違を放置していて良いものなのかどうか。来年の参議院選は9条を巡る憲法『改正』が争点とされそうです。9条を守る側が、攻めてこないように外交努力をするはイロハのイとしても、「それでも攻めてきたらどうするか」明確に態度表明せざるを得ないだろうと思うのです。
「攻めてきたらどうするのか」、9条の会でも意見は主に三通りあります。
①自衛隊が応戦する。
②逃げる。
③素手で戦う。
①の場合、解釈改憲論と明文改憲論とに分かれます。
解釈合憲論=自衛権は国際法上も認められているし憲法に違反しない。正当防衛に限り自衛隊が応戦する。旧保守層に多い。
明文改憲論=自衛権は認められるが自衛隊は違憲である。9条は守りつつ加憲して、自衛の為の軍隊を持つことを明記し、個別的自衛権の行使のみできるようにする。
②は自衛隊は9条に違反するので違憲であり、将来国民の合意で廃止する。軍隊や武器を使用しない自衛権を行使できる。逃げるのも自衛の正当な行為である。
③は軍隊や武器を使用しない自衛権の行使として、最低警察力、デモや集会、ゼネストなどの不服従運動で抵抗する。ガンジーの無抵抗主義なども含まれる。
私は結論から先に述べると③です。②もあっていいと思います。しかし①はないです。
9条を守るということは、自衛隊は違憲であり応戦できないことになります。攻めてきた場合、自衛隊が存続する以上、災害対策部隊として活動してもらうことになります。
だいたい、攻めてきても応戦しない9条国家に徹するのであれば、他国が軍隊で武力攻撃するのは無駄であるばかりか無意味でしょう。その前に外交努力で片が付きます。武装するから武装攻撃も発生するわけです。
戦後日本国憲法が公布され、51年の朝鮮戦争辺りから解釈改憲が始まります。いつしか自衛のための応戦(戦争)は認めるべきで、軍隊ではない自衛隊は憲法に違反しないとされてきました。
憲法9条はどっからどう見ても、国の交戦権は認めていないし、軍隊の保持は禁止しています(ここで意見が違うと話にならないのですが)。集団的自衛権はもちろんのこと、個別的自衛権すら認めていない。世界で初めて、あらゆる戦争行為を完全否定宣言しているからすごいのです。
今、9条の理念は素晴らしいが自衛隊を個別的自衛権行使に限定し、安倍政権の集団的自衛権の行使を無効にする憲法改正をしようという意見が、保守やリベラル左派の学者文化人から出されています。小林節、今井一、相田和弘、高橋源一郎etc、シールズの中心メンバーにも見られます。我が9条の会にもいらっしゃる。
自衛隊を合憲にするために明文改憲するというのは、これまで自民党保守政権の主張でした。それを左派の一部も言い出し初めているという、全体の右傾化を危惧します。
しかしもう一度考えてみましょう。いつのどの戦争も自分の国を守る個別自衛の為という名目で起こされているのです。あのナチスでさえそうです。日本もそうでした。現在の中東紛争各国もISでさえ自衛の為の戦争を口実としているのです。70年前の未曾有の戦災の後で、それらあらゆる口実の戦争を一切止めよう、戦争の手段を永久に放棄しようと決意したのが、日本国憲法9条ではなかったのではないか。
日本国憲法を自衛のための戦争を認めるように変えたら、世界で戦争している何処の国とも変わらない国家になるだけです。そんなことを私は望まない。9条の有る日本国は、自衛の為の戦争よりも戦争放棄を高く掲げたところに、世界に誇れる値打ちがあったはずです。
ということで、私は9条丸腰国家、非武装平和外交、攻めてきたら素手で戦う。誰が何と言おうと、それで良しと考えています。
(続く)
その前に、一昨年の秘密保護法、昨年の集団的自衛権の閣議決定、今国会の安保関連法の制定と、海外で戦争する国作りを目指す一連の動きの中で、腑に落ちない点があったので書き留めておきます。
それは何時頃から私自身が気付いたのか、いつの間にか、自分の国を自分で守るのは当然で、個別的自衛権は認めるべきで、自衛隊は必要ではないか、という空気が世間で広まっているということです。そこが腑に落ちないことでした。
そもそも日本国憲法9条は個別的自衛権すら認めておらず、かつて司法がどう判断したにせよ自衛隊は違憲な存在であり、9条を素直に読めばあらゆる戦争を放棄し交戦権は認めていない、常備軍を持つことを禁止しているのがはっきりと伝わってきます。それだけを宣言しているのだというのは、小学生が読んでも理解できることでしょう。
しかるにいつの間にか、攻められたら自衛(応戦)するのは当然で、自衛隊で対処するというのが野党を含めた主張となっているようです。民主党や生活の党はもとより、社民党や共産党までそのようなことを言い始めています。いつの間にそうなったのでしょうか・・・。
一昨年辺りから地域で9条の会の活動に参加するようになって、署名などで各家を回ると8割方の人は署名してくれるし、9条は守るべきとの意見は圧倒的に多い。
ただ気になったのは、昨年4月の結成大会の時から「攻めて来たらどうする」「自衛隊は必要ではないか」という意見が根強くあることでした。その辺りから何か変だと気付いたのかもしれません。
「攻めて来たらどうする」という切迫観念は、前回も書いたように、煽られ刷り込まれたもので根拠がないと私は考えているが、それに対する9条の会側からは「攻めて来ないように外交努力をする」という説明が実しやかにされていました。
「攻めて来たらどうする」に対して、「攻めて来ないように外交努力をする」では、まるで会話になっていない。「それでも攻めて来たらどうする」という質問に対して、問題をすり替えて別の解答をしているという苛立たしさを感じたものです。
その後9条の会としては、9条を守るという一点共闘で、「攻めてきたらどうする」とか自衛隊は違憲か合憲かは論議を深めこそすれ、無理に共通の一致点とはしない。そこは意見が違っていても構わない、ということで収まっています。
果してその相違を放置していて良いものなのかどうか。来年の参議院選は9条を巡る憲法『改正』が争点とされそうです。9条を守る側が、攻めてこないように外交努力をするはイロハのイとしても、「それでも攻めてきたらどうするか」明確に態度表明せざるを得ないだろうと思うのです。
「攻めてきたらどうするのか」、9条の会でも意見は主に三通りあります。
①自衛隊が応戦する。
②逃げる。
③素手で戦う。
①の場合、解釈改憲論と明文改憲論とに分かれます。
解釈合憲論=自衛権は国際法上も認められているし憲法に違反しない。正当防衛に限り自衛隊が応戦する。旧保守層に多い。
明文改憲論=自衛権は認められるが自衛隊は違憲である。9条は守りつつ加憲して、自衛の為の軍隊を持つことを明記し、個別的自衛権の行使のみできるようにする。
②は自衛隊は9条に違反するので違憲であり、将来国民の合意で廃止する。軍隊や武器を使用しない自衛権を行使できる。逃げるのも自衛の正当な行為である。
③は軍隊や武器を使用しない自衛権の行使として、最低警察力、デモや集会、ゼネストなどの不服従運動で抵抗する。ガンジーの無抵抗主義なども含まれる。
私は結論から先に述べると③です。②もあっていいと思います。しかし①はないです。
9条を守るということは、自衛隊は違憲であり応戦できないことになります。攻めてきた場合、自衛隊が存続する以上、災害対策部隊として活動してもらうことになります。
だいたい、攻めてきても応戦しない9条国家に徹するのであれば、他国が軍隊で武力攻撃するのは無駄であるばかりか無意味でしょう。その前に外交努力で片が付きます。武装するから武装攻撃も発生するわけです。
戦後日本国憲法が公布され、51年の朝鮮戦争辺りから解釈改憲が始まります。いつしか自衛のための応戦(戦争)は認めるべきで、軍隊ではない自衛隊は憲法に違反しないとされてきました。
憲法9条はどっからどう見ても、国の交戦権は認めていないし、軍隊の保持は禁止しています(ここで意見が違うと話にならないのですが)。集団的自衛権はもちろんのこと、個別的自衛権すら認めていない。世界で初めて、あらゆる戦争行為を完全否定宣言しているからすごいのです。
今、9条の理念は素晴らしいが自衛隊を個別的自衛権行使に限定し、安倍政権の集団的自衛権の行使を無効にする憲法改正をしようという意見が、保守やリベラル左派の学者文化人から出されています。小林節、今井一、相田和弘、高橋源一郎etc、シールズの中心メンバーにも見られます。我が9条の会にもいらっしゃる。
自衛隊を合憲にするために明文改憲するというのは、これまで自民党保守政権の主張でした。それを左派の一部も言い出し初めているという、全体の右傾化を危惧します。
しかしもう一度考えてみましょう。いつのどの戦争も自分の国を守る個別自衛の為という名目で起こされているのです。あのナチスでさえそうです。日本もそうでした。現在の中東紛争各国もISでさえ自衛の為の戦争を口実としているのです。70年前の未曾有の戦災の後で、それらあらゆる口実の戦争を一切止めよう、戦争の手段を永久に放棄しようと決意したのが、日本国憲法9条ではなかったのではないか。
日本国憲法を自衛のための戦争を認めるように変えたら、世界で戦争している何処の国とも変わらない国家になるだけです。そんなことを私は望まない。9条の有る日本国は、自衛の為の戦争よりも戦争放棄を高く掲げたところに、世界に誇れる値打ちがあったはずです。
ということで、私は9条丸腰国家、非武装平和外交、攻めてきたら素手で戦う。誰が何と言おうと、それで良しと考えています。
(続く)
by turnipman
| 2015-10-26 16:42
| 頑張らないけど諦めない