2015年 06月 18日
‟戦争法案”に関する砂川判決の位置 |
くまの平和ネットワーク主催、矢野宏氏の講演「ジャーナリストから見た憲法9条とこれからの日本」を聴きに行った。
矢野氏は、黒田清氏に師事した反骨のジャーナリストだ。
講演会は盛況で、憲法学者の違憲発言問題から、安倍政権の暴走と危険な狙いまで、簡潔で鋭い内容のあるお話であった。
特に安倍政権が、2012年米のアーミテージ・ナイ報告書通りに、原発推進、TPP、秘密保護法、武器輸出緩和、と言われるままに動いていたのがはっきりした。
またアメリカには徴兵制はないけれど、凄い格差社会で軍隊に志願する若者はいくらでもいるとのこと。今の日本も派遣法改悪「生涯派遣」「正社員0」をめざし若者の貧困化を進めているのは、‟戦争法案”の動きと表裏の関係にあることが分かった。
ただ講演会後、衆院憲法審査会で憲法学者3人が‟戦争法案“は違憲だと声明して以来、潮目が変わったとする意見が上がっているが、果たしてそうだろうかと思った。
安倍政権側からすれば、憲法学者などが違憲とするのは折込済みで、一定議論を経た後で、だから今の国際環境に合わせ憲法を変える必要があるという、改憲風潮作りの一環として捉えているのではないのか。。
その辺り気になったのでまとめてみる。
国会論戦で持ち出されたのが砂川裁判であった。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816
砂川裁判とは1959年、60年安保の前年、米軍立川基地に立ち入ったとして7人が起訴された事件で、9条の下でも自衛権は認められるとしたうえで、安保体制下の米軍の駐留などは違憲かどうか判断できないとする判決が出された。
政府は、そこには集団的自衛権は個別的自衛権と区別されていないので、集団的自衛権も合憲と解釈できるというトンデモナイこじつけをした。
それに対して野党側は、判決は個別的自衛権について述べたもので、集団的自衛権など最初から論外だったとして反論した。
その後防衛相などが、「武力行使3要件」は砂川判決そのものを根拠にしていないと弁解し、二転三転している。
次に出してきたのが、砂川判決以来法学上の「公理」とされてきた‟統治行為論”である。
高度な政治性のある国家統治に関するような問題については、司法は判断を保留するとしている。こちらが狙いの本丸であり要注意と思われる。
最近読んだ矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』によると、砂川判決の問題の核心は、日本の最高裁は安保体制を憲法の枠外として、治外法権的に、司法では判断できないとしているところにあった。
それが砂川裁判の‟統治行為論”の謂れだ。
(裁判要旨八)
安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。
矢野宏氏と矢部宏治氏とは、似たお名前だとここに来て気付いた。ただ本の著者の方は、本自体は面白かったけれど、自衛隊を認めた‟いい方向での”改憲論者であるところに違和感を感じている。私は自衛隊も違憲であり、砂川判決自体が違憲判決だと思っている。
憲法学者の99%が集団的自衛権を違憲だと意思表明しても、海外派兵して違憲訴訟がたくさん起きたとしても、最高裁判所は違憲かどうか判断する立場にないという理由で、実質上合憲と見なすこともできる。
すなわち国際紛争に巻き込まれた場合、憲法よりも安保法制や今回の集団的自衛権の法制が上であり、国内法の憲法基準では範囲外で、審査に馴染まないとされる恐れがある。
戦後レジュームとは、ポツダム宣言を受け入れ、安保体制と砂川裁判により対米隷属関係を受け入れたとこにあった。砂川裁判では米国が日本政府に圧力をかけ、最高裁判官と密談していたことが、米解禁公文書で明らかになっているように、日本の司法の独立と立憲主義を放棄したものだった。
だから護憲派は、戦争法案は違憲に決まっているからとか、潮目が変わったなどと安心などしていてはならない。それでは足もとを掬われることになるだろう。
55年も前に日本の司法は自主独立を放棄してきたわけで、違憲訴訟になっても負ける可能性がある。そこに今回の‟戦争法案”に関する砂川判決の位置があると思う。
マスコミは注意深くその肝心な点を報道していないようだ。
ここは憲法解釈での論争も重要であるけれど、それ以上に「海外での戦争はやめろ」という国民運動の声大きくし、実際の力関係を変えなければならない。
矢野氏は、黒田清氏に師事した反骨のジャーナリストだ。
講演会は盛況で、憲法学者の違憲発言問題から、安倍政権の暴走と危険な狙いまで、簡潔で鋭い内容のあるお話であった。
特に安倍政権が、2012年米のアーミテージ・ナイ報告書通りに、原発推進、TPP、秘密保護法、武器輸出緩和、と言われるままに動いていたのがはっきりした。
またアメリカには徴兵制はないけれど、凄い格差社会で軍隊に志願する若者はいくらでもいるとのこと。今の日本も派遣法改悪「生涯派遣」「正社員0」をめざし若者の貧困化を進めているのは、‟戦争法案”の動きと表裏の関係にあることが分かった。
ただ講演会後、衆院憲法審査会で憲法学者3人が‟戦争法案“は違憲だと声明して以来、潮目が変わったとする意見が上がっているが、果たしてそうだろうかと思った。
安倍政権側からすれば、憲法学者などが違憲とするのは折込済みで、一定議論を経た後で、だから今の国際環境に合わせ憲法を変える必要があるという、改憲風潮作りの一環として捉えているのではないのか。。
その辺り気になったのでまとめてみる。
国会論戦で持ち出されたのが砂川裁判であった。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816
砂川裁判とは1959年、60年安保の前年、米軍立川基地に立ち入ったとして7人が起訴された事件で、9条の下でも自衛権は認められるとしたうえで、安保体制下の米軍の駐留などは違憲かどうか判断できないとする判決が出された。
政府は、そこには集団的自衛権は個別的自衛権と区別されていないので、集団的自衛権も合憲と解釈できるというトンデモナイこじつけをした。
それに対して野党側は、判決は個別的自衛権について述べたもので、集団的自衛権など最初から論外だったとして反論した。
その後防衛相などが、「武力行使3要件」は砂川判決そのものを根拠にしていないと弁解し、二転三転している。
次に出してきたのが、砂川判決以来法学上の「公理」とされてきた‟統治行為論”である。
高度な政治性のある国家統治に関するような問題については、司法は判断を保留するとしている。こちらが狙いの本丸であり要注意と思われる。
最近読んだ矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』によると、砂川判決の問題の核心は、日本の最高裁は安保体制を憲法の枠外として、治外法権的に、司法では判断できないとしているところにあった。
それが砂川裁判の‟統治行為論”の謂れだ。
(裁判要旨八)
安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。
矢野宏氏と矢部宏治氏とは、似たお名前だとここに来て気付いた。ただ本の著者の方は、本自体は面白かったけれど、自衛隊を認めた‟いい方向での”改憲論者であるところに違和感を感じている。私は自衛隊も違憲であり、砂川判決自体が違憲判決だと思っている。
憲法学者の99%が集団的自衛権を違憲だと意思表明しても、海外派兵して違憲訴訟がたくさん起きたとしても、最高裁判所は違憲かどうか判断する立場にないという理由で、実質上合憲と見なすこともできる。
すなわち国際紛争に巻き込まれた場合、憲法よりも安保法制や今回の集団的自衛権の法制が上であり、国内法の憲法基準では範囲外で、審査に馴染まないとされる恐れがある。
戦後レジュームとは、ポツダム宣言を受け入れ、安保体制と砂川裁判により対米隷属関係を受け入れたとこにあった。砂川裁判では米国が日本政府に圧力をかけ、最高裁判官と密談していたことが、米解禁公文書で明らかになっているように、日本の司法の独立と立憲主義を放棄したものだった。
だから護憲派は、戦争法案は違憲に決まっているからとか、潮目が変わったなどと安心などしていてはならない。それでは足もとを掬われることになるだろう。
55年も前に日本の司法は自主独立を放棄してきたわけで、違憲訴訟になっても負ける可能性がある。そこに今回の‟戦争法案”に関する砂川判決の位置があると思う。
マスコミは注意深くその肝心な点を報道していないようだ。
ここは憲法解釈での論争も重要であるけれど、それ以上に「海外での戦争はやめろ」という国民運動の声大きくし、実際の力関係を変えなければならない。
by turnipman
| 2015-06-18 23:24
| 一言風刺