2011年 06月 16日
自らを救う |
<どうしようもない時どうするか>: 連帯保証
私は本来単純な楽天家であり、解決できない問題はない、解決できない様な事はそもそも“問題”ではない、などとお目出度く考えて過ごしていた。
どうしようもない時どうするか、初めてその命題に出くわしたのは丁度昨年の今頃でした。だからこの3/11では、多少は免疫力を付けて受け止められたとも思っている。
昔友人の連帯保証人になっていたらしくて、突然相手が自己破産し請求がこちらに来るという金銭トラブルがあった。何のことやら青天の霹靂、寝耳に水でした。
その相方に問合せしても、良く説明しないしうやむやに誤魔化し責任逃れしようとしているかにみえる。訳が分からず色々調べたり、弁護士と相談したりしたが埒があかない。
その時は怒りと同情と、天使と悪魔が一時間おきぐらいに交互にやって来たものです。
時間の力というのは凄いもので、その間隔が2時間、5時間、1日、1週間おき・・・とだんだん開いて感情が和らいでいく。
落ち着いて来て気付いたのは、金の問題ではあるが、最も嫌なことは“この年で恨み辛みを持って何年も返済し続けるのか”と思うとゾッとする、その心の落ち着かせどころこそが問題のネックだということでした。
どうせ支払うのなら、気分よく人助けだと思って払ったらどうだと、頭では分かる。しかし実際本当にそう思えるようになるのはなかなか難しい。結局天使と悪魔が100回ぐらい交互にやって来て、半年ぐらいしてようやく天使が勝つようになったようです。
相手が誤魔化して逃げようとするのは、そこまで追い込まれて大変なんだと思うようにする。騙されたのではとか、そんなことは考えないようにする。最低自分の返済で相手が助かるのならそれで良いとそれだけ思う。
すると毎月の振込が何か無償の善行をしているようで気分が良くなるのです。いろんな人の支援や助言もあったりして、憎しみは消え喜びすら生まれるから不思議なものです。
そんなアホな、なんてお目出度い人と思われても良い。
禍福は糾える縄のごとしとはそのようなことでもあろう。
なぜ自分がそうなれたのか、一つはクリスチャンだった母の影響があったからと思う。
「右のほほをぶたれたら左のほほを出せ」「だますよりはだまされた方が良い」。昔の高名な人(誰だったか思い出せない)が盗賊に襲われたとき、これも持って行けと全てあげたという逸話などをよく聞かされたものです。
若いころはそんな話が欺瞞的に思われ嫌いであった。しかし相手だけではなく自らを救うという見方をすれば又別な意味合いになる。他者を許し助けることが自己を救済する、その時そう気付きました。
天使と悪魔が交差していた昨年7月24日に母は亡くなりました。これらの言葉が最期の置き土産のようによみがえり、私は救われたようです。
もうじき一周忌。そのことを墓前に報告し感謝してこようと思います。
スイレンと金魚
PS:
今でも、コンビニでお釣の小銭を、カウンターの東北義援金カンパ箱に入れる。10円や100円でどうなるもんでもないが、何もできない自分が少し救われたような気分になるからする。
しかしこれは一人間関係に思うことで、“東電を許し助けることが自分を救う”とはならない、自分の中に葛藤があります。何故なのか、これも問題の核心のようです。
私は本来単純な楽天家であり、解決できない問題はない、解決できない様な事はそもそも“問題”ではない、などとお目出度く考えて過ごしていた。
どうしようもない時どうするか、初めてその命題に出くわしたのは丁度昨年の今頃でした。だからこの3/11では、多少は免疫力を付けて受け止められたとも思っている。
昔友人の連帯保証人になっていたらしくて、突然相手が自己破産し請求がこちらに来るという金銭トラブルがあった。何のことやら青天の霹靂、寝耳に水でした。
その相方に問合せしても、良く説明しないしうやむやに誤魔化し責任逃れしようとしているかにみえる。訳が分からず色々調べたり、弁護士と相談したりしたが埒があかない。
その時は怒りと同情と、天使と悪魔が一時間おきぐらいに交互にやって来たものです。
時間の力というのは凄いもので、その間隔が2時間、5時間、1日、1週間おき・・・とだんだん開いて感情が和らいでいく。
落ち着いて来て気付いたのは、金の問題ではあるが、最も嫌なことは“この年で恨み辛みを持って何年も返済し続けるのか”と思うとゾッとする、その心の落ち着かせどころこそが問題のネックだということでした。
どうせ支払うのなら、気分よく人助けだと思って払ったらどうだと、頭では分かる。しかし実際本当にそう思えるようになるのはなかなか難しい。結局天使と悪魔が100回ぐらい交互にやって来て、半年ぐらいしてようやく天使が勝つようになったようです。
相手が誤魔化して逃げようとするのは、そこまで追い込まれて大変なんだと思うようにする。騙されたのではとか、そんなことは考えないようにする。最低自分の返済で相手が助かるのならそれで良いとそれだけ思う。
すると毎月の振込が何か無償の善行をしているようで気分が良くなるのです。いろんな人の支援や助言もあったりして、憎しみは消え喜びすら生まれるから不思議なものです。
そんなアホな、なんてお目出度い人と思われても良い。
禍福は糾える縄のごとしとはそのようなことでもあろう。
なぜ自分がそうなれたのか、一つはクリスチャンだった母の影響があったからと思う。
「右のほほをぶたれたら左のほほを出せ」「だますよりはだまされた方が良い」。昔の高名な人(誰だったか思い出せない)が盗賊に襲われたとき、これも持って行けと全てあげたという逸話などをよく聞かされたものです。
若いころはそんな話が欺瞞的に思われ嫌いであった。しかし相手だけではなく自らを救うという見方をすれば又別な意味合いになる。他者を許し助けることが自己を救済する、その時そう気付きました。
天使と悪魔が交差していた昨年7月24日に母は亡くなりました。これらの言葉が最期の置き土産のようによみがえり、私は救われたようです。
もうじき一周忌。そのことを墓前に報告し感謝してこようと思います。
スイレンと金魚
PS:
今でも、コンビニでお釣の小銭を、カウンターの東北義援金カンパ箱に入れる。10円や100円でどうなるもんでもないが、何もできない自分が少し救われたような気分になるからする。
しかしこれは一人間関係に思うことで、“東電を許し助けることが自分を救う”とはならない、自分の中に葛藤があります。何故なのか、これも問題の核心のようです。
by turnipman
| 2011-06-16 21:06
| 思いのままに