2017年 05月 30日
福島帰省② 見捨てられた命がある浪江町 |
一度行きたいと思っていた浪江町に行った。
‟変わらぬ自然と変わりゆく人達の営み“という故郷観は、浪江町でもまた同じように感じられた。ただ会津と違っていたのは、そこは帰れない故郷ということであった。人が生活することを拒んでいる。
立ち入り禁止区域が広範に有り、道路はゲートと警備員によって分断されている。
高速道路でその上を通過した際は、カウンターは毎時3をオーバーした。健康上の国際基準年間1㎜㏜を毎時に換算すると、たしか毎時0.23μ㏜だったと覚えているのでかなり高い。年間20㎜㏜以下なら帰還可能とする見解からすれば、毎時4.6μ㏜までOKとなる。
浪江の町もまた一見風光明媚であった。牧歌的な草原と丘に囲まれ新築の家が点在する。TVの‟DASH村”が近くにあるらしい。
しかし高速から見下ろすと、帰還可能地域といえども雨戸が閉まった家が多く、田畑も所々除染はしているが、殆ど放置されたままのように見える。
浪江の町中に入るとシャッターが降りているところが多い。窓ガラスが割れている家もある。仮設の商店街が設けられ、周辺の生活を支えている。
国は帰還困難地域を解除し補償を打ち切ろうとしているが、帰る人は少ないと言われている。
人口19,000中戻る町民は2,000人ぐらい、1割程度の老人だそうだ。2000人の老人で町の復興などできないという話だ。
‟希望の牧場“へ行った。
これが福島原発から14Kmの所にある。半径20キロ圏内の警戒区域で、広い牧場に牛が320頭いるらしい。そこはとても癒される「牧場動物園」だった。
いつ着けるか分からないのでアポなしで行ったら、吉沢正巳さんが丁度仕事をしていて、私たちは様々な話を聞くことができた。
(昨年講演会で聞いたことで重複することは割愛する。)
原発事故から5年「絶望状況に屈しない希望を持とう」
吉沢さん達は、事故直度牛を殺処分できなかったというのが事の始まりだった。繋がれたまま死んでいく牛たちを見て殺せなかった。
事故後単身東京に向かい東電や官邸に抗議に行く際、タンクに「決死救命・団結」とスプレーした時は胸が震えたそうだ。
「他の命を粗末にする者は自らの命も粗末にする気がする」、正確に何と言ったか忘れたが、そのようなことを言っていた。
普通損得勘定で何のためにとか考えるけれど、牛飼として牛の命を見捨てられなかったのが始めの出来事だった。
やがてその意義を見つけ出した。
今の日本の政府はオリンピックに向けて、福島原発事故を隠蔽しようとしている。ここは行政の指示に従わない治外法権区域で、原発事故の生き証人としてとして存続し続ける。被爆の実態調査研究にも役立つと確信している。
エサ代だけで毎月150t、200万円以上かかるそうだ。
心無い牛飼が60頭の牛を預けて、とんずらしたので訴訟も起こしている。きれい事ではない。年も取るし永久に続けることはできない。
それでもあと5年、全ての牛を去勢し生きている間は生かし続けたいとのことだった。
鮭が遡上する請戸川の河口にある漁港に行く。
この港一体、瓦礫は片付けられ廃棄物が山と積まれているが、6年も経つのに新しい建物が無いのが奇妙であった。
車中、倉本聡の「自然塾」の関係で知った、植物学者宮脇昭氏を中心とする‟震災ガレキで森の防波堤を作るプロジェクト“がある話をしたら、会津から同行した友人ら二人から反論があった。「そこにはまだ発見されない遺体が沢山有る、遺族の方の心中を察したらどうしようもない」と。
事はそれほど簡単ではないようだ。それで港一帯廃墟のままなのだろうかと、ここにも見捨てられない命があるような気がした。
浪江町の復興などあり得ないと私は思う。
では浪江町の希望はどこにあるのだろうか。
ただ誠実に命を守り大切にする中にしか希望は見いだせない。
希望の牧場のパンフ「見捨てられた命があるのを知っていますか?」の中に‟深い深い絶望の先に、希望が見えるのかもしれない“という吉沢さんの言葉があった。
福島と沖縄、原発と基地の問題は、私の中でどこかで繋がっている。
小学校は廃校となり、時計は津波の来た時刻で止まったまま。
子供たちは引率指導が良かったのか、近くの高台へ避難して全員無事だった。
‟変わらぬ自然と変わりゆく人達の営み“という故郷観は、浪江町でもまた同じように感じられた。ただ会津と違っていたのは、そこは帰れない故郷ということであった。人が生活することを拒んでいる。
立ち入り禁止区域が広範に有り、道路はゲートと警備員によって分断されている。
高速道路でその上を通過した際は、カウンターは毎時3をオーバーした。健康上の国際基準年間1㎜㏜を毎時に換算すると、たしか毎時0.23μ㏜だったと覚えているのでかなり高い。年間20㎜㏜以下なら帰還可能とする見解からすれば、毎時4.6μ㏜までOKとなる。
浪江の町もまた一見風光明媚であった。牧歌的な草原と丘に囲まれ新築の家が点在する。TVの‟DASH村”が近くにあるらしい。
しかし高速から見下ろすと、帰還可能地域といえども雨戸が閉まった家が多く、田畑も所々除染はしているが、殆ど放置されたままのように見える。
浪江の町中に入るとシャッターが降りているところが多い。窓ガラスが割れている家もある。仮設の商店街が設けられ、周辺の生活を支えている。
国は帰還困難地域を解除し補償を打ち切ろうとしているが、帰る人は少ないと言われている。
人口19,000中戻る町民は2,000人ぐらい、1割程度の老人だそうだ。2000人の老人で町の復興などできないという話だ。
これが福島原発から14Kmの所にある。半径20キロ圏内の警戒区域で、広い牧場に牛が320頭いるらしい。そこはとても癒される「牧場動物園」だった。
いつ着けるか分からないのでアポなしで行ったら、吉沢正巳さんが丁度仕事をしていて、私たちは様々な話を聞くことができた。
(昨年講演会で聞いたことで重複することは割愛する。)
原発事故から5年「絶望状況に屈しない希望を持とう」
吉沢さん達は、事故直度牛を殺処分できなかったというのが事の始まりだった。繋がれたまま死んでいく牛たちを見て殺せなかった。
事故後単身東京に向かい東電や官邸に抗議に行く際、タンクに「決死救命・団結」とスプレーした時は胸が震えたそうだ。
「他の命を粗末にする者は自らの命も粗末にする気がする」、正確に何と言ったか忘れたが、そのようなことを言っていた。
普通損得勘定で何のためにとか考えるけれど、牛飼として牛の命を見捨てられなかったのが始めの出来事だった。
やがてその意義を見つけ出した。
今の日本の政府はオリンピックに向けて、福島原発事故を隠蔽しようとしている。ここは行政の指示に従わない治外法権区域で、原発事故の生き証人としてとして存続し続ける。被爆の実態調査研究にも役立つと確信している。
エサ代だけで毎月150t、200万円以上かかるそうだ。
心無い牛飼が60頭の牛を預けて、とんずらしたので訴訟も起こしている。きれい事ではない。年も取るし永久に続けることはできない。
それでもあと5年、全ての牛を去勢し生きている間は生かし続けたいとのことだった。
この港一体、瓦礫は片付けられ廃棄物が山と積まれているが、6年も経つのに新しい建物が無いのが奇妙であった。
車中、倉本聡の「自然塾」の関係で知った、植物学者宮脇昭氏を中心とする‟震災ガレキで森の防波堤を作るプロジェクト“がある話をしたら、会津から同行した友人ら二人から反論があった。「そこにはまだ発見されない遺体が沢山有る、遺族の方の心中を察したらどうしようもない」と。
事はそれほど簡単ではないようだ。それで港一帯廃墟のままなのだろうかと、ここにも見捨てられない命があるような気がした。
浪江町の復興などあり得ないと私は思う。
では浪江町の希望はどこにあるのだろうか。
ただ誠実に命を守り大切にする中にしか希望は見いだせない。
希望の牧場のパンフ「見捨てられた命があるのを知っていますか?」の中に‟深い深い絶望の先に、希望が見えるのかもしれない“という吉沢さんの言葉があった。
福島と沖縄、原発と基地の問題は、私の中でどこかで繋がっている。
小学校は廃校となり、時計は津波の来た時刻で止まったまま。
子供たちは引率指導が良かったのか、近くの高台へ避難して全員無事だった。
by turnipman
| 2017-05-30 06:55
| 2011.3.11 時代