2016年 01月 24日
『海難1890』と『母と暮らせば』 |
暖かい冬が続いていましたが、本来の寒波到来です。今夜は雪になりそうです。
今年の正月映画を2本観ました。
『海難1890』は製作前に田中光敏監督の講演を聴き、『利休にたずねよ』の評判も良かったので、若干期待もしていたのですが、残念ながら政治利用を凌駕するような出来ではなかったようです。
2013年安倍首相とエルドアン大統領(当時は首相)の協議で合作が催促され、資金援助も受け製作されています。昨年11月完成した映画を特別にユルドゥズ宮殿にて二人一緒に鑑賞したそうです。
日本トルコ友好関係を持ち挙げたその裏で進行していることは、中東への自衛隊派兵、武器輸出や原発輸出などの動きなどです。
樫野﨑漁民にとって1980年の海難事故の救助活動は、海に生きる者として無私無欲の当り前の行為であった。そして終戦直後の島ぐるみの米軍基地反対闘争があり撤退させ、1970~90年頃対岸の古座町原発誘致反対運動に立ちあがり阻止している。それもこれも生活と海を守る一連の当然の行為としてあったはずです。
この映画は戦争ビジネスや原発ビジネスに政治利用され、串本町や樫野﨑漁民の本当の姿を映し出しているようには思えません。
中には「観光客が増えていいことだ」なんて声も聞くけれど、現地ではちょっとしたしらけムードが漂っている。
私がファンで樫野﨑育ちのru-roさんが「見てきたような嘘をつき」と作品を評していました。
さて中東はどうなっているのか検索してみた。
解りにくいけれど、この間戦争状態が周辺国にも広がっており、空爆を機にトルコとロシアも一触即発の危機にあります。そこに日本を巻き込もうとする動きがあるのは確かです。映画の背景にあるものを読み取らなければならないと思います。
集団的自衛権の閣議決定や海外で戦争に巻き込まれる戦争法の成立、そして緊急事態条項による憲法改悪の動きとマッチングしている。イラン・イラク戦争時、邦人救出に自衛隊を派遣できなかったのは現憲法に不備があったからだという意識を、国民に刷り込もうとする狙いが透けて見える。これは‟国策的映画“ではないかと感じました。
樫野﨑 海難のあった現場
その後に観た『母と暮らせば』が良かった。泣ける映画でした。
原爆投下という国策によって、瞬時に若い息子を失った母の心の葛藤を描いている。置き去りにされた者の心の平安はどうすれば取り戻せるのか。取り戻せないのか。
映画では息子が幽霊となって現れ母と会話する形をとるが、母が死んだ息子に語りかけ自問自答する物語と解釈できる。
生きている息子の恋人に、良い人が現れたら息子のことを忘れて結婚をするように勧める。それが亡くなった多くの人達の願いでもあるという心境に、母と息子の霊はたどり着くのですが・・・。
その良き人が実際に現れ、結婚することを息子の霊前に報告に来て願いは成就する。
しかし取り残された母は、なぜ私たち(母と息子)だけがこんなひどい目に合わなければならないのかと告白し慟哭せざるを得ない。
いやぁ観ていて物語の最後はどうするのかと予想できませんでしたが、しかし最後の結末にどんでん返しの救いがありました。どんな重いテーマでもホッとする楽しさがある、さすが山田洋次監督だと思いました。
母と息子の霊は一緒になることで救われます。それがどんな形だったかは観てのお楽しみ、まだ観ていない方の為にここでは控えときましょう。
長崎原発は浦上教会の上に落ち、一瞬にして7万人以上が死没しました。山田監督はその一括りの7万人ではなく、1人ひとりの死の悲しみを描きたかったそうです。
「悲しむ者は幸いなり」というキリスト教的な映画であり、「倶会一処」の仏教的な救いの映画でもあります。
理不尽な国策でどんな悲劇があっても人は救われると、この映画は伝えているようです。国策的映画の対極にある、個人の尊厳を謳い上げているのです。
山田洋次監督の最近の作品の中で『母と暮らせば』は、最も感動した作品となりました。
この物語は、井上ひさしの広島を舞台とした『父と暮らせば』の対であり、井上ひさしのやり残した仕事として、娘さんからタイトルは『母と暮らせば』長崎の原爆を背景にした作品という条件だけで依頼されたそうで、山田洋次監督自身渾身の作品だったようです。
最期に「井上ひさしさんに感謝をささげる」という字幕で終わっている。「井上ひさしさんにこの作品を捧げる」で良いんじゃないかと相方に問うたら、「井上ひさしが作りたくて果たせなかったものを作らせてもらったのだから、‟感謝“でしょう」とのこと。さてどうなんでしょう。
長崎(映画のチラシより)
今年の正月映画を2本観ました。
『海難1890』は製作前に田中光敏監督の講演を聴き、『利休にたずねよ』の評判も良かったので、若干期待もしていたのですが、残念ながら政治利用を凌駕するような出来ではなかったようです。
2013年安倍首相とエルドアン大統領(当時は首相)の協議で合作が催促され、資金援助も受け製作されています。昨年11月完成した映画を特別にユルドゥズ宮殿にて二人一緒に鑑賞したそうです。
日本トルコ友好関係を持ち挙げたその裏で進行していることは、中東への自衛隊派兵、武器輸出や原発輸出などの動きなどです。
樫野﨑漁民にとって1980年の海難事故の救助活動は、海に生きる者として無私無欲の当り前の行為であった。そして終戦直後の島ぐるみの米軍基地反対闘争があり撤退させ、1970~90年頃対岸の古座町原発誘致反対運動に立ちあがり阻止している。それもこれも生活と海を守る一連の当然の行為としてあったはずです。
この映画は戦争ビジネスや原発ビジネスに政治利用され、串本町や樫野﨑漁民の本当の姿を映し出しているようには思えません。
中には「観光客が増えていいことだ」なんて声も聞くけれど、現地ではちょっとしたしらけムードが漂っている。
私がファンで樫野﨑育ちのru-roさんが「見てきたような嘘をつき」と作品を評していました。
さて中東はどうなっているのか検索してみた。
解りにくいけれど、この間戦争状態が周辺国にも広がっており、空爆を機にトルコとロシアも一触即発の危機にあります。そこに日本を巻き込もうとする動きがあるのは確かです。映画の背景にあるものを読み取らなければならないと思います。
集団的自衛権の閣議決定や海外で戦争に巻き込まれる戦争法の成立、そして緊急事態条項による憲法改悪の動きとマッチングしている。イラン・イラク戦争時、邦人救出に自衛隊を派遣できなかったのは現憲法に不備があったからだという意識を、国民に刷り込もうとする狙いが透けて見える。これは‟国策的映画“ではないかと感じました。
樫野﨑 海難のあった現場
その後に観た『母と暮らせば』が良かった。泣ける映画でした。
原爆投下という国策によって、瞬時に若い息子を失った母の心の葛藤を描いている。置き去りにされた者の心の平安はどうすれば取り戻せるのか。取り戻せないのか。
映画では息子が幽霊となって現れ母と会話する形をとるが、母が死んだ息子に語りかけ自問自答する物語と解釈できる。
生きている息子の恋人に、良い人が現れたら息子のことを忘れて結婚をするように勧める。それが亡くなった多くの人達の願いでもあるという心境に、母と息子の霊はたどり着くのですが・・・。
その良き人が実際に現れ、結婚することを息子の霊前に報告に来て願いは成就する。
しかし取り残された母は、なぜ私たち(母と息子)だけがこんなひどい目に合わなければならないのかと告白し慟哭せざるを得ない。
いやぁ観ていて物語の最後はどうするのかと予想できませんでしたが、しかし最後の結末にどんでん返しの救いがありました。どんな重いテーマでもホッとする楽しさがある、さすが山田洋次監督だと思いました。
母と息子の霊は一緒になることで救われます。それがどんな形だったかは観てのお楽しみ、まだ観ていない方の為にここでは控えときましょう。
長崎原発は浦上教会の上に落ち、一瞬にして7万人以上が死没しました。山田監督はその一括りの7万人ではなく、1人ひとりの死の悲しみを描きたかったそうです。
「悲しむ者は幸いなり」というキリスト教的な映画であり、「倶会一処」の仏教的な救いの映画でもあります。
理不尽な国策でどんな悲劇があっても人は救われると、この映画は伝えているようです。国策的映画の対極にある、個人の尊厳を謳い上げているのです。
山田洋次監督の最近の作品の中で『母と暮らせば』は、最も感動した作品となりました。
この物語は、井上ひさしの広島を舞台とした『父と暮らせば』の対であり、井上ひさしのやり残した仕事として、娘さんからタイトルは『母と暮らせば』長崎の原爆を背景にした作品という条件だけで依頼されたそうで、山田洋次監督自身渾身の作品だったようです。
最期に「井上ひさしさんに感謝をささげる」という字幕で終わっている。「井上ひさしさんにこの作品を捧げる」で良いんじゃないかと相方に問うたら、「井上ひさしが作りたくて果たせなかったものを作らせてもらったのだから、‟感謝“でしょう」とのこと。さてどうなんでしょう。
長崎(映画のチラシより)
by turnipman
| 2016-01-24 23:41
| 映画・本 etc