“何故この国は外圧によってしか変われないのか”について考えてみた

明治維新は確かに欧米列強の圧力があって変化がもたらされた。外圧が何もなかったなら幕藩体制はまだまだ続いただろう。
そのために資本の基礎的熟成を待たず、イギリスのような産業革命を経ず、フランスのような商取引の個人の自由を謳う市民革命もなく、ドイツのような合理的な哲学もなく、明治政府によって先進欧米に追いつくことを至上目標とし富国強兵政策が上から遂行されることになった。


近代的な合理主義や民主主義が十分根付いていない、したがって外圧によってしか変われないという問題の指摘は実は古くて新しい。

詳しくは忘れたけれど、戦前の講座派と労農派との論争があったし戦後は日本人の主体性論争があったと記憶している。“アジア的生産様式”がどうのと狩猟民族と農耕民族の違いについても論争されていた。

その一つ一つを掘り返し再考するのも大切と考えるが、なにかその作業は不毛に感じる。不毛というのは、様々な動きがあったけれど日本の枠組みを変えるような運動にはならなかったということ。
明治の自由民権運動、大正デモクラシー、戦後の民主化、安保闘争、革新自治体の広がり等運動はやがて収束し、長いものには巻かれろ式の半封建的な同族部族型社会の域に戻っていった。

その運動の拠って立つ基盤が西洋の近代合理主義や民主主義であり、そこにこの国がまだ根付いていないのは何故かと問題提起すること自体、何も生み出せなかったのではないかと思われるのだ。
根付いていない者が何故根付かないのかを問うてみても分かるわけないだろう・・・。そもそも何故根付く必要があったのか・・・

むしろ欧米型近代合理主義や民主主義が、人類の普遍的な発展法則のように信じ込まされてきたところに問題はなっかったのだろうか。
現実には中南米やイスラム圏アジアの仏教圏等は、その欧米型理念に今でも馴染んではいないのだ。


つまり明治維新や戦後社会は外圧により扉を開かれ、主体の熟成を待たず仕組み制度を上から整備し育成されて行ったけれど、そもそも血肉化できない“近代合理主義や西洋型民主主義”をもってして、何故血肉化されないかと問うてみても、不毛なのではないかということ。

逆に考えれば、外圧でしか変わらない国だったから、近代的な合理主義や民主主義が下からの熟成で根付くことはなかった。
だから変わらなかった日本人気質が連綿と続いている、良し悪しは別としてそう考えざるをえないのではないだろうか。


また文章が長くなりそうで嫌なのですが(笑)ここはちょっと深めたい。




フーテンのオオジロー 傷だらけでヨレヨレ しかしてケンカは強い
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by turnipman | 2013-02-03 09:56 | 思いのままに | Trackback | Comments(0)

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