2012年 06月 16日
歩きの信仰 |
“蘇り”の語源は“黄泉帰り”かもしれない、そんな思いにさせる文章がありました。
梅原猛:サライ・ムック神坂次郎との対談
「・・・熊野は死の国ですから、一度そこへ行って帰ってくれば、再び蘇る。つまり、魂の再生をするところが熊野だった。その蘇りを主題にして、中世に出来上がったのが説経節 『小栗判官』です」。
「山あり谷ありの熊野古道は、長いこと歩いていると疲れて朦朧としてくる。そうすると、あの世に行っていた人たちが現れてくる…。不思議なところですね、熊野は」。
神坂次郎:同上
「のちに熊野の山中で土木の仕事をしていて、その闇のすごさを実感しました。熊野の闇というのは、かすかに揺れるんですよ。夕暮れに闇が迫ってくると、闇がベールのように揺れる・・・」。
「庶民の熊野詣は、今も盛んな四国八八か所巡りの原型であり、歩きの信仰は熊野に始まります。だから熊野古道はこれからも残しておかないといけない」。
中上健次:「枯木灘」の後書き
「・・・業病、今はもう完全にそれはなおる病気であるが、昔は仏罰として恐れられた癩病の患者は、或る日或る時、発病が分かるやいなや、夜ふけて人目につかぬよう、白装束の巡礼姿に身を変えて、家族の訣れを受け、この熊野にむけて旅立った。
ここは黄泉の入り口だった。いや黄泉の国だった。熊野の霊験あらたかな湯として知られた湯ノ峰の湯は、難苦を受けた人間の黄泉での、最後の希だった。湯峰の湯に入れば、人はよみがえる。熊野は昔の人にとって、死と再生の観念の純粋抽出した場所だった。」
ぶっちゃけた話で、上記三人とも熊野に行けば必ず病気は治るなんてことは思っていないでしょう。治るかもしれないと想いながら詣でる、希望を持って歩くというところが大切だと言っているようです。
歩きながら蘇ろうとするのが熊野信仰であるから、熊野の神々が結局仏教と習合して修験道となり、益々人気を得ていった件に合点します。
かって神道家の友人とこんな話をしました。
いずれの宗教も特に新興宗教などで、入信したら不治の病が治ったり奇跡が起きたなどという話がよくある。確かに宗教は治癒力を高める力があり、それらの実例を否定はしない。
しかし治癒力の奇跡は、いろんな健康法でも言われているし、○○主義とかの実践者にも見られる。末期ガンを治した食事療法や気功法、社会活動家なども知っている。だから宗教特有のものではなく、それらを包括して捉えるべきではないか。
しかも信じる者は救われるといううが、それでも救われない人がいるのはなぜなのか。
それに対して友人はこう答えたのです。
病気が治ったりとか運が良くなったりとか実際よく起こること。そして病気を治したいために入信する人も多い。それでも治らない人も確かにいる。それは信心が足りなかったということではない。
病気が治ることが重要ではないのです・・・。
治るとか治らないとかはある気付き(たぶん神)への糸口、それぞれの一つの過程を与えられたにすぎない。病気が治ったからと言っていずれは死ぬ身。その楽しげな気付きの世界に入っていけたなら、治らなくてもそれ以上に救われるとしたらどうなのか。
「病気が治ることが重要ではない」。ちょっとした目からウロコでした。
熊野詣の核心がそこにあるようです。病気が治ろうと病気が治らなかろうと救済を求めて旅立つ。歩くということは生きる行為だから、歩いている限り死は乗り越えている。長い道を歩き老廃物を出し切りそれまでの自分を殺し再生することで、その結果として奇跡は起こるかもしれない。しかし熊野詣や四国のお遍路さんは、そんな奇跡よりも大事な心(魂)の救済を希んで歩いて行くのではないか、宗教家ではないけど私はそのように思います。
初めて熊野古道を歩いたのは10数年前、湯の峰温泉から本宮へ山越えした時でした。こちらに引っ越す前の名古屋で山に登っていた頃で、相方と歩いたのですが素晴らしく気分の良い山道でした。自分の何か命が喜ぶようで感動したのを覚えています。いつかまたその続きを歩いてみたい。
小栗判官と照手姫の絵馬(印南町東光時)
梅原猛:サライ・ムック神坂次郎との対談
「・・・熊野は死の国ですから、一度そこへ行って帰ってくれば、再び蘇る。つまり、魂の再生をするところが熊野だった。その蘇りを主題にして、中世に出来上がったのが説経節 『小栗判官』です」。
「山あり谷ありの熊野古道は、長いこと歩いていると疲れて朦朧としてくる。そうすると、あの世に行っていた人たちが現れてくる…。不思議なところですね、熊野は」。
神坂次郎:同上
「のちに熊野の山中で土木の仕事をしていて、その闇のすごさを実感しました。熊野の闇というのは、かすかに揺れるんですよ。夕暮れに闇が迫ってくると、闇がベールのように揺れる・・・」。
「庶民の熊野詣は、今も盛んな四国八八か所巡りの原型であり、歩きの信仰は熊野に始まります。だから熊野古道はこれからも残しておかないといけない」。
中上健次:「枯木灘」の後書き
「・・・業病、今はもう完全にそれはなおる病気であるが、昔は仏罰として恐れられた癩病の患者は、或る日或る時、発病が分かるやいなや、夜ふけて人目につかぬよう、白装束の巡礼姿に身を変えて、家族の訣れを受け、この熊野にむけて旅立った。
ここは黄泉の入り口だった。いや黄泉の国だった。熊野の霊験あらたかな湯として知られた湯ノ峰の湯は、難苦を受けた人間の黄泉での、最後の希だった。湯峰の湯に入れば、人はよみがえる。熊野は昔の人にとって、死と再生の観念の純粋抽出した場所だった。」
ぶっちゃけた話で、上記三人とも熊野に行けば必ず病気は治るなんてことは思っていないでしょう。治るかもしれないと想いながら詣でる、希望を持って歩くというところが大切だと言っているようです。
歩きながら蘇ろうとするのが熊野信仰であるから、熊野の神々が結局仏教と習合して修験道となり、益々人気を得ていった件に合点します。
かって神道家の友人とこんな話をしました。
いずれの宗教も特に新興宗教などで、入信したら不治の病が治ったり奇跡が起きたなどという話がよくある。確かに宗教は治癒力を高める力があり、それらの実例を否定はしない。
しかし治癒力の奇跡は、いろんな健康法でも言われているし、○○主義とかの実践者にも見られる。末期ガンを治した食事療法や気功法、社会活動家なども知っている。だから宗教特有のものではなく、それらを包括して捉えるべきではないか。
しかも信じる者は救われるといううが、それでも救われない人がいるのはなぜなのか。
それに対して友人はこう答えたのです。
病気が治ったりとか運が良くなったりとか実際よく起こること。そして病気を治したいために入信する人も多い。それでも治らない人も確かにいる。それは信心が足りなかったということではない。
病気が治ることが重要ではないのです・・・。
治るとか治らないとかはある気付き(たぶん神)への糸口、それぞれの一つの過程を与えられたにすぎない。病気が治ったからと言っていずれは死ぬ身。その楽しげな気付きの世界に入っていけたなら、治らなくてもそれ以上に救われるとしたらどうなのか。
「病気が治ることが重要ではない」。ちょっとした目からウロコでした。
熊野詣の核心がそこにあるようです。病気が治ろうと病気が治らなかろうと救済を求めて旅立つ。歩くということは生きる行為だから、歩いている限り死は乗り越えている。長い道を歩き老廃物を出し切りそれまでの自分を殺し再生することで、その結果として奇跡は起こるかもしれない。しかし熊野詣や四国のお遍路さんは、そんな奇跡よりも大事な心(魂)の救済を希んで歩いて行くのではないか、宗教家ではないけど私はそのように思います。
初めて熊野古道を歩いたのは10数年前、湯の峰温泉から本宮へ山越えした時でした。こちらに引っ越す前の名古屋で山に登っていた頃で、相方と歩いたのですが素晴らしく気分の良い山道でした。自分の何か命が喜ぶようで感動したのを覚えています。いつかまたその続きを歩いてみたい。
小栗判官と照手姫の絵馬(印南町東光時)
by turnipman
| 2012-06-16 12:13
| 古道散策