牟婁と熊野

本州最南端のこの地方は東牟婁郡とか西牟婁郡と呼ばれている。この“牟婁(ムロ)”の意味が解らないでいた。多分何かがたむろしてたんだろうぐらいに思って気にせずにいた。
“熊野”の意味も、こんな南方に動物の熊が野原にいるわけがない、熊は寒い地方にいるもんだと変に思いつつ、どうでもよいと放っておいた。

高野澄氏の著作本にその辺の解説があったので紹介する。
しかし古事記や日本書紀やら古文書といっても、今の大マスコミと同じで時の権力者の都合のいいように編纂されたであろうし、多分に憶測や希望的観測が混じっている。それでもその背景にある事情やものの見方は多少なり汲み取ることができるだろうから、鵜呑みにせず参考にしたら良いと思う。

■(要約)
孝徳天皇(596~654年)のころ、熊野は熊野国として紀伊国の外にあったのを、紀伊国の牟婁郡に編入されたとある。当時の役人の感覚では牟婁と熊野は同じ意であったらしい。

神が隠れ籠れるところを「神奈備のミムロ(御室)」と表記されることから、牟婁は室―ムロに由来しているようだ。
熊野は『紀伊続風土記』によると「熊は隈であり籠るという意味、この地は山川幽谷、樹木鬱蒼だから熊野と名づけた」と説明されている。
隈野と御室はどちらも「隠れ、籠もる」意味なのだ。

神が隠れ籠るところを「死者の霊の籠もるところ」ともしている。『日本書紀』などで死ぬことを「隠れる」と表し、『万葉集』ではこのような性格の場所を隠国(コモリク)と呼んでいる。

熊野の周辺、特に南側の太平洋沿岸の、キラキラ輝く開放的な光景が生のシンボルだとすれば熊野の森の黒色は死そのものだ。
神と死生に縁の深い熊野になぜわざわざ行くのか。
じつは、古代の日本人にとって死は忌まわしいものではなかった。「隠国」という言葉にいみじくも象徴されるように、死は一時的に隠れることであり、将来生に変貌することが約束されていると確信していた。

熊野詣は「疑似の死」と考えるのがいい。「隠国」であると万人が認める熊野に行く、つまり「疑似の死」を体験することで「よく死ぬ」経験を積んでおくということ。それが熊野信仰の柱になっていた。



隠国の森に満月が昇る
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by turnipman | 2012-05-10 04:23 | 古道散策 | Trackback | Comments(0)

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